財とは
一般的には財貨を意味しています。
しかし「貝」は貨幣の基であって、同時に価値観の原点をも示唆しています。
「才」は本来の資質や能力を指していますから、「財」は「才」の価値観でしょうか。
それとも価値ある「才」なのでしょうか。
いいえ、何物に対しても「その価値を見出し得る」それが「財」の原点ではないでしょうか。

 寶とは
いわゆる宝物ですが、観音経には「金、銀、瑠璃、シャコ、瑪瑙、珊瑚、琥珀、真珠などの宝を求めて海に入り、様々な災厄に翻弄され窮地に陥っても、観音さまに救われる」と説かれています。
では、海に入った人にとっての「寶」は、大海に求めた七宝でしょうか、それとも、観音さまに出会ったことでしょうか。
いいえ「救いの基」が「寶」の原点です。
だから七宝で救われ、また救えば七宝が「寶」ですし、観音さまの教えに救われ、また救えば、それが「寶」だともいえます。
でも、それだけだと何か疑問が残りそうです。
その点も含めて、次項で考えて見たいと思います。

 真の財寶とは何だろう
財貨、宝物、名誉、健康、地位、権力、安穏、享楽など、様々なものを求めて人は悩み苦しみます。
でも「のど元過ぎれば熱さを忘れる」ように、縁の助けを受けてもすぐに忘れ、それが自然な形であれば、気が付く事さえ稀です。
この「微かな縁の気付き」の有無が、財宝を得るか得られないかの分岐点のように思えるのですが・・。
それはともかく、求めなければ何も得られず、求めて積み重ねる努力に、神仏を含めた縁の気付きと、それに伴って得られる清浄感があれば、求めたものが何であれ「財寶」と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、悪心が有れば清浄感は無い筈です。
官 位