無礙弁才は
「智慧無礙弁才尊天」と称せられるほど、弁才天の功徳と非常に密着した関わりを持っています。
それは、永遠の真理に基づく冴えた智慧が、或いは勉学に、或いは経営に、或いは論壇にと敷延し、やがては仏法護持の本誓に違うことなく、本来の道に摂入せしむるという、大道の大前提に基づいた大慧の顕現を意味しているからです。

無礙
(むげ)
とは、こだわり無い事で「無碍」とも書きます。
でも単に「くよくよしない」事ではありません。
物事の本質をよく見て、その根本のところにある、「諸法無我」の説くところを、理解することによって得られるものです。

弁才
とは「才(さい)を弁(わきま)える」ことです。
そして「冴えた弁論の才」もまた弁才です。
でも、論語に「巧言令色少なし仁」とあるように、それはペラペラと巧く喋ることではありません。
「弁える」とは、単なる「物知り」や「物分かり」の次元でなく、物事本来の道理をよく心得ていて、何事にも囚われない智慧のはたらきをいいます。
そして、その智慧の元が「才」です。
また「弁才」とは、その智慧、老翁を凌ぎ、その働き、若者をも超えるとし、是即ち人間業に非ず、ひとり「弁才天」にその真を観るといわれます。
無礙弁才