福徳とは |
「善行およびそれによって得る福利」とあります。 中でも「福徳の三年目」や「福徳の百年目」などは、滅多にない幸運な出来事に出会うことのようです。 弁才天の大なる功徳とされる「福徳」は、根本には「真の善行」がしっかと根を下ろしています。 では「真の善行」とは何でしょうか? また「善因善果、悪因悪果」とは、何が善因で何が悪因なのでしょうか? 分かっているようで、意外と解っていないものです。 |
善行とは何だろう? |
一般的に私達が考える「善行」といえば、 人を傷つけたり、迷惑をかけない。とか、 人に喜ばれることをする。 など、ボランティア的な行為を思い浮かべます。 確かにそれは大切なことで、異論の余地は有りませんが、ただ単に、犠牲的精神だけで「福徳」に結びつくとは思えません。 それに「今の善が後に悪」になる事もあります。 |
善とは唯一あるのみ? |
西田幾太郎博士は、その著書「善の研究」の中で、 眞の善とは唯一あるのみである。
即ち眞の自己を知るといふに盡きている。 我々の眞の自己は宇宙の本體である、 眞の自己を知れば啻(ただ)に人類一般の
善と合するばかりでなく、宇宙の本體と融合し、 神意と冥合するのである。 と述べておられます。 |
真の善行と福徳成就 |
「自己を知る」のは結構難しいものですが、ちょっと思い返してみても、長所よりも欠点の方が多く思い当たります。 また、そうでなければなりません。 そして、そんな自分を知るだけでも、他を認め、落ち度や欠点をも含めて受け容れることができます。 それが、人の好意を聚めるのは当然の理でしょう。 好意や喜びが聚まれば日ごとに繁栄を来たし、福徳の成就もまた、営々と叶うことに行き着きます。 その、繁栄の一こま一こまに込められた、弁才天の護法は、とても身近で細やかな面も多く、つい忘れがちなのも人の人たる由縁ですが、報恩の念は常に心から離さずにいたいものです。 |